城塞(中) / 司馬遼太郎


司馬遼太郎城塞(中)」を読み終えました!


城塞(中) (新潮文庫)

城塞(中) (新潮文庫)


徳川家康の壮大な犯罪計画が書かれていました。
司馬遼太郎は、流石に冬の陣・夏の陣の家康の計画には、家康のことを何度も「」と揶揄してました。


徳川幕府を残すためには、最大の敵「豊臣家」を滅ぼしておく必要があると考えた家康は、半ば無理矢理豊臣家と対立し、大群を率いて大阪城を包囲し、攻城戦を始めました。
しかし、豊臣家には、牢人の後藤又兵衛真田幸村が抗戦し、不利と思われていた豊臣家に、戦の流れを呼び寄せます。
その流れで、一度家康へ味方に付いた旧豊臣派の離脱を恐れた家康は、和議を申込み、休戦を試みます。
そこには、心理戦が盛り込まれていました。
豊臣家は、目下の状況から逃れることに喜ぶ反面、家康は、第二戦を考えた行動を取っていました。
その和議の結果、家康は、半ば強制的に大阪城の総堀を埋めてしまいました。
その行為は、まさに悪党!流石のこれには、家康を良い風には書かれていませんでした。
この後の話は、後編に続きますが、この半ば無理矢理な計画には、家康は大犯罪者としか言いようはありませんが、勝った者が善という世の中、この大阪冬の陣・夏の陣から、200年に渡る徳川幕府が続くことを考えると、徳川家康のとった行動は歴史的なものと言えます。


正直、この戦いは、流石に家康の欲が強すぎて、「関ヶ原の戦い」のような対立とは程遠いものでした。
関ヶ原」の時は、石田三成としては、傲慢な態度の家康を豊臣家を代表して成敗する。徳川家康としては、石田三成に不満を持つ多くの武将を代表して、石田三成を倒す。
というぶつかり合いがありましたが、この大阪の出来事は、家康が一方的過ぎるため、流石の私も、家康のやり方には不満を感じる内容です。
勝った者が善という世界なので、ホント惨い世界ですね。